2009年9月28日 (月)

遺文の真偽問題雑感

時が経つのは本当に早く、秋を感じるような時期になってきた。朝晩はかなり涼しく、蝉が鳴いていた頃の暑さはもはや感じない。夜はコオロギの声が聞こえ、昼にはトンボが飛んでいる。自然は嘘を付かないなと実感する。

今月の12日は龍口法難の日に当たっていた。日蓮教団の各宗派では、特に本山格の寺院では、おおよそ法要を執り行ったことであろう。私も、報恩のために法要に参詣してきた。
ところで、この龍口法難。最近ではなかったのではないか、という説が横行している。その根拠が、信憑性のある遺文に記述がないからだという。檀越の四条金吾が頚切られるところに伴ったことを、日蓮聖人は「いつの日にかわすれなん」と讃えたとされるが、そうした四条金吾賜書は真蹟や古写本がなく、信憑性がないと言われる。
疑いを起こして調べてみると、確かに、というより見事に、龍口法難に伴ったとする記述を有する四条金吾賜書は、すべて真蹟・古写本がなく、後世の編集過程で出現した遺文ばかりである。

しかし、日蓮聖人遺文の信憑性を判断する規定として、「身延曽存」を含めるというのがこれまた常識となっている。となると、『種々御振舞御書』がこの部類に入る。本抄では龍口法難の状況を詳細に伝えており、光り物も本抄に記されている。
現代人は光り物が出現したなどあり得ないと判断するから、いくら身延曽存だからって、これは排除すべきだとするのである。具体的に記さないが、そうした記述が学報に載っていたことを記憶しているが、こうした風潮に対しては、私自身理解できない。はっきり言って主観論での議論となっているからだ。

『種々御振舞御書』は、明治以降の歴史学者が積極的に否定をした。
特に、光り物については、古くは日蓮宗僧から天台僧となった真迢が、弟子・真陽の名のもとに著わした『禁断日蓮義』に記されている。明治には重野安繹が『土木殿御返事』(文永8年9月14日付)を疑問視して批判を展開した。それに対して、国柱会祖・田中智学が応戦した。その後、佐木秋夫と山川智応の間でも論争があった。これらの詳細は割愛するが、いずれにしても現代人をして光り物は受け入れがたいとするのが元となって、外部の学者と宗学者との間で対論が展開したのだ。
ところが近年、末木文美士が『日蓮入門』等で『種々御振舞御書』を認める発言をした。私はこれに大変驚嘆した。宗学者以外の仏教学者が信憑性を説いたことは、明らかに宗学者が認める以上に意味がある。さらには、この末木発言によって、明治時代とは逆転し、日蓮研究者が批判側に、外部の学者が是認側にという逆転の図式となったわけである。

私の基本的な立場は、古写本がなくても内容面を考慮して真偽問題を考えるべきと言うものであることは、以前にも記した。
http://beginsharu.cocolog-nifty.com/blog/2007/05/post_cc1e.html (「日進聖人仰之趣」について)
今、日蓮研究者は真蹟重視の遺文受容を積極的に行っている。しかし、それはかえって日蓮聖人の意を損ねる行為であるとも思っている。先日本を読んでいて驚いたのは、『三世諸仏総勘文教相廃立』(総勘文抄)が祐師目録に記載されていたことだ。今では中古天台思想が濃厚な本抄は完全に偽書扱い、相手にもしていない状況がある。しかし、本抄を含めた中古天台思想が濃厚の遺文とか、記述内容が何となくそぐわない、等と理由をつけて古くからその存在が知られているにもかかわらず枠を作って排除する、古写本がないから何が何でも偽書だとしてしまうのは、かえって危険な行為であると私は思う。もう少し丁寧に見ていくべきではないか、そう思っている。
とある研究者は、そうした遺文と取り上げて、その系年とか内容を精査して発表しているが、なかなか良いところに目をつけているなと私は秘かに注目している。

実は、今回こうしたことを書いたのも、とある日蓮系寺院のホームページをみて驚愕したことにある。すなわち、遺文解説のコーナーに「真蹟が伝わっていても断簡のみの現存である場合は、中途書き換えの場合も可能性としてあるから注意を要する」旨の説明がなされていたのである。さらには、真蹟も「後世の諸師が手を加えたものもある」と記されていた。これでは、何を信用していいのか、すべてが疑問のものとなり、過去に「親鸞はいなかった」と同様の極論が出現するのではないか、そういう不安感を抱いた。

そこで、9月ということもあり、龍口法難の記された『種々御振舞御書』をその一例に挙げて、私自身の意見を開陳した。一読されてご意見があれば、是非ともご指導願いたいと思う。(日蓮聖人以外敬称略で記したことをお許し下さい)。

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2009年6月30日 (火)

『大崎学報』合冊本の落丁

久しぶりの更新だ。
色々書きたいことはあるのだが、なかなか記事にすることができない。私はいくつか興味のあるブログがあって時折見るのだが、頻繁に更新しているブログを見ると、尊敬してしまう。
ただ、こんなに更新しないブログではあっても、結構閲覧していただいているようで、毎日少しずつではあるがカウントが刻まれている。これを考えれば、一応置いておくだけでもそれだけの価値はあるのかなと思っている。とは、毎度冒頭に書く常套文章であるが…。

今回は、覚え書き、というより一応日蓮教学研究者の間でよく読まれている学術雑誌『大崎学報』の合冊版に落丁部分を発見したので、一応その旨を記しておこうと思って、更新を試みた。アップしておけば、研究者の方々が何らかの形でこの記事を探し出され、頭に入れておいてくれたのなら、きっと役に立つだろうという考えから、あげておくことにしたまでである。

『大崎学報』の合冊版は、昭和50年に第1期として7冊が出されたようだ。奥付は「編修・立正大学仏教学会、代表者・茂田井教亨、発行者・西塚定雄、発行所・巌南堂書店、発売所・東陽堂書店」となっている。
こういう古い雑誌が合冊となって発売されることは、少なからず学問発展のために寄与する有益な事業であるといえるだろう。私もこの合冊版は、学部時代の頃から今に至るまで、大変活用させてもらっている。
今回、「挫日蓮」を読んでいる中で、日蓮宗と他宗徒との宗論について知りたくなった。そこで色々と調べるうちに、稲田海素氏が『大崎学報』誌上に3回に分けて「日蓮宗宗論書解題」という題名で、宗論記録の文献の解題を執筆されているものを見つけた。そこで、いつものように『大崎学報』の合冊版を確認してみた。すると、15号(明治43年11月)に掲載された、都合3回目(最終回)の解題のうち、(1)~(16)の部分が落丁していた。2冊の合冊本を確認してみたが、両方とも落丁していたので、これはすべての合冊本にいえることであると思う。
宗論書の解題とは、かなり狭小な部分を扱っているものかもしれない。しかし、稲田氏のこの情報量はかなり充実したものがあり、今回私が確認したかった内容は、この解題によってかなり理解できたので、稲田氏には心から感謝をしたいと思う。ただ、落丁部分は残念ながらまだ入手していないので、何らかの形で手に入れられたらと思う。
なお、安土宗論のような大きな宗論に関する文献は『大日本仏教全書』に収載されているが、そのほかの宗論書については、山口晃一氏の編集になる『日蓮教学全書』に刊本の集成であるが、かなり多く掲載されているので、必要な方は参看いただきたい。

2008年10月12日 (日)

『鎌倉遺文』所収の「日蓮聖人遺文」(承前)

昨日は、『鎌倉遺文』に収録された「日蓮聖人遺文」について記したが…。

以前購入した『興隆学林紀要』12号に、小西徹龍氏が「『鎌倉遺文』所載の『日蓮聖人遺文』について」と題する論考が掲載されていたことを思い出した。
それは、自宗の発表大会で口頭発表されたものをまとめられたもののようだが、『鎌倉遺文』に収録された「日蓮聖人遺文」すべてを抽出して、表形式で提示されていて、非常に分かりやすいものなので、今日は参考及び備忘的な意味からも記しておいた。

小西氏は、

鎌倉時代の研究に今後も『鎌遺』(管理者註・『鎌倉遺文』)中の日蓮聖人遺文が引用されていくことは明らかであるが、宗祖の文章を『定遺』(管理者註・『昭和定本日蓮聖人遺文』)を基に読んでいる限りでは、『鎌遺』の成果を知らず、時に重大な誤りを犯すことになると考える(98頁)

と指摘されている。『昭和定本』であっても、正篇・続篇の位置付けや、執筆年次など、それを直ちに受け入れるものとはなっておらず、根本の書籍でさえテキストの問題が完璧になっているわけではないことからも、『鎌倉遺文』に所収された日蓮聖人遺文は、さらに注意を要することを認識した上で、使用していかなければならない。

2008年10月11日 (土)

『鎌倉遺文』11896号文書の「日蓮聖人遺文」について

最近、元寇に関することに興味を持って、色々と本を読んでいる。今日は、少しネットで関係する事柄を見ていた。

とあるブログにたどり着いたのだが、そのブログで語られている内容があまりに専門的な内容で、驚愕してしまった。私自身、このブログを管理しているが、こうしてなかなか更新しない、誠に情けないものになってしまっている。しかし、中にはこまめに、それも専門家や学者も驚くような、すごいブログ・ホームページを主宰する方もいるんだなと、今日は本当に驚愕の一言に尽きた。

そのことについては、また後日にすることとして、今日はそれを読んでちょっと疑問に思って調べたことがあったので、久方の更新とかねてアップすることにした。

『鎌倉遺文』は、竹内理三博士が編集した史料集成で、中世史研究者は当然ながらよく利用をする。論文とかレポートなどに『鎌倉遺文』なんて書くと、ちょっとかっこいいなみたいな思いを抱くが、とにかく中世史研究の中では権威がある、欠かすことのできない史料集である。

私は、日蓮教団に関する研究をしているから、基本的に日蓮聖人遺文は『昭和定本日蓮聖人遺文』を用いる。正直なところ、ここ五・六年の間に日蓮聖人遺文が『鎌倉遺文』に収録されていることを知ったのが事実で、『鎌倉遺文』自体を使い始めたのも、本当につい最近という、実にお粗末なものなのだが…。

久しぶりに、今日は『鎌倉遺文』を引くことになった。それは、そのブログに11896号文書の日蓮聖人遺文を引いて、色々と言及していたからだ。

この11896号文書は、文永の役の様子が記されている遺文である。最後に「建治元年乙亥四月 日 四条金吾殿御返事」と記されている。そこで、『昭和定本』に当たってみた。すると、不思議なことに、11896号文書に該当する遺文が見あたらない。おかしいなと思い、原典に当たってみようと思って『鎌倉遺文』16巻を開いてみた。すると、『高祖遺文録』を出典の根拠として、確かにそのブログに引かれた本文がしっかり記されていた。

去文永十一年大歳甲戌十月ニ、蒙古国ヨリ筑紫ニ寄セテ有シニ、對馬ノ者、カタメテ有シ總馬尉等逃ケレハ、百姓等ハ男ヲハ或ハ殺シ、或ハ生取ニシ、女ヲハ或ハ取集テ、手ヲトヲシテ船ニ結付、或ハ生取ニス、一人モ助カル者ナシ、壱岐ニヨセテモ又如是、船オシヨセテ有ケルニハ、奉行入道豐前々司ハ逃テ落ヌ、松浦黨ハ數百人打レ、或ハ生取ニセラレシカハ、寄タリケル浦々ノ百姓共、壱岐・對馬ノ如シ、又今度ハ如何カ有ラン、彼國ノ百千萬億ノ兵、日本国ヲ引回シテ寄テ有ナラハ、如何ニ成ヘキソ、北ノ手ハ先佐渡ノ島ニ付テ、地頭・守護ヲハ須臾ニ打殺シ、百姓等ハ北山ヘニケン程ニ、或ハ殺サレ、或ハ生取レ、或ハ山ニシテ死スヘシ、抑是程ノコトハ、如何シテ起ルヘキソト推スヘシ、前ニ申ツルカ如ク、此國ノ者ハ、一人モナク三逆罪ノ者也、是ハ梵王帝釋日月四天ノ、彼蒙古國ノ大王ノ身ニ入セ給テ責給也、日蓮ハ愚ナレトモ、釋迦佛ノ御使、法華經ノ行者也ト名乘候ヲ、用サランモ不思議ナルヘシ、其失ニ國破レナン云々、
建治元年乙亥四月 日  日蓮花押  四條金吾殿御返事

しかし、不思議なのは、最後に記された註記である。これには、

○一谷入道女房宛日蓮書状(一一九〇五号)に同文見ゆ

と記されていた。指摘通り11905号文書に行くと、現在『昭和定本』で記されている『一谷入道御書』が掲載されており、確かにその一部分と同文があった。

日蓮聖人遺文は、日蓮聖人滅後700年の間に様々に編纂されてきたことから、遺文が分割されたり逆に合体されたりなどがあり、また真書か偽書かなどといった議論も存在し、さらにはそこに記された文章が正確に伝わっているか否かなどの議論もあって、遺文に当たってみてハテナと思われることも時折ある。

しかし、同文が別の文書として扱われることはかなりおかしなことなので、私は典拠となっている『高祖遺文録』にも当たってみた。しかし、どうみても『高祖遺文録』に、11896号文書らしきものは存在しなかった。
考えられることは、『鎌倉遺文』の編集段階で、何らかの錯誤を起こしてしまったということである。それも、

建治元年乙亥四月 日  日蓮花押  四條金吾殿御返事

と記される遺文が、『王舎城事』と同一であるから、それと誤って編集してしまったのではないかと思われる。

『鎌倉遺文』に関しては、現在でも研究会があるようだが、当時の史料から伺える中世像を議論することもさることながら、こうした史料の信憑性や内容の是非、文献の合離など、掲載された史料自体の研究も、きっと行われているものと思う。
テキスト自体の検討がしっかりとなされた上で、色々と議論していく必要があると私は思っている。

11896号文書の「日蓮聖人遺文」は、疑問符のある文献であるから、この内容を用いるためには、11905号文書、もしくは『昭和定本』等の日蓮聖人の遺文集を用いていくべきだと思った次第である。
ちなみに、「一谷入道御書」は、千葉鷲山寺他に断簡が散在しており、日蓮聖人が確実に記した遺文として位置付けられる。

なお、この遺文の記事に関して述べられたブログに対する私見は、また後日を期したいと思う。

鎌倉遺文研究会ホームページ
http://www.f.waseda.jp/ebisawa/KAMAKURA.html

2007年5月28日 (月)

「日進聖人仰之趣」について

●はじめに
 私は、幾つかの日蓮教学研究に関連する掲示板やブログをなるべく定期的に見るようにしている。その中で、「興門所伝考」というHPを作る直人氏のブログを読んでいると、「日興上人をめぐって」と題した一考が掲載されていた(2007年03月19日付)。
 日興上人に関しては、日蓮聖人からの相伝を記した『二箇相承』について、その賛否が議論されている。直人氏は批判の側に立つが、氏は、この『二箇相承』批判に関連して、身延3世日進師の聞書という「日進聖人仰之趣」(以下、「本史料」と呼称する場合あり)という文献に対して見解を披瀝している。
 わたしも、本史料に関しては若干の意見があるので、『二箇相承』の真偽とか、日興上人はどうであったかなどという議論ではなく、「日進聖人仰之趣」の文献としての価値などについて――もう話題が提起されてから随分時間が経過してしまった感があるが…――、思いのままに述べてみたいと思う。

●本史料の書誌情報と注目度
 まずは私見を述べる前に、本史料に関して簡単に説明をしておこう。
 本史料は、祖山学院(現・身延山大学)同窓会で発行する『棲神』21号(昭和11年2月)に掲載された。当時教鞭を執っていた室住一妙氏によって、身延文庫の未整理古写本の整理中に発見されたものであるとして、室住氏の解読による全文が載せられている。また、史料のあとには同氏による解題も掲載されており、読者への便宜が図られている。
 掲載された写真を見ると冒頭に「日進聖人仰之趣」と表題があって、次に「嘉暦三年戊辰正月一日ノ御物語ト云フ也云々」とある。そして「一、」と箇条形式で、18項目が書かれている。その18項目の文章には繋がりがない。また、年代順にもなっておらず、宗祖の事蹟を述べてあると思われる間に滅後の門下の状況が描かれていたりと、内容は項目によって単立の感がある。
 なお、同学院の岡教邃氏によって、本文献に対する見解が『棲神』22号に掲載されている。同誌の発刊以前に、解読者である室住氏に原稿を見せたのだろう。岡論文のあとに、室住氏が「附言」として、前号に載せた解題の訂正を、岡論文に応えるような形態で掲載されている。
 以後、管見においては、そんなに目立った史料として取り上げられることはなかったようであるが、近年、特に本史料の(第六)に述べられた日興上人の事蹟に絡んで、関連組織・個人によって、様々な文章や掲示板に見られるようになってきた。

 本史料には、特に日蓮聖人の事蹟について、遺文に見られない内容が記されている。日蓮教団の場合、初期教団ではあまり伝記類が編まれず、また編まれたことが確認できても現存していなかったり、現存しても略述にとどまっていて体系的でないなど、滅後早い段階での伝記類から聖人事蹟の詳細な事実がつかめないのが実状だ。したがって、こうした新たな記述の発見によって日蓮聖人の事蹟の一項目として伝記に書き加えることができるから、新史料発見の功績は大きい。
 新発見の本史料に対しては、発見した室住氏をして「資料は斬新で而も確実なもの、第一資料に近くまで推挙するに足る」(口絵解説)と絶大な信頼を寄せ、また岡氏も「甲州鏡中長遠寺に所蔵する「大聖人毎日勤行事」とて日向上人或筆記云凡一期ノ行儀の相貌……と筆を起せる文明十三年二月日朝聖人在判、文明十七年霜月日意書写本、又は啓蒙所引の「古抄」などゝ類似せる好資料」(92頁)との賛辞を示している。

●文献学的に本史料をどのように見るべきか
 では、本史料が室住氏や岡氏や指摘したように、第一級の史料として扱うことができるのだろうか。
 現在の日蓮教団では、随分と日蓮聖人遺文の扱いが慎重になっている。遺文としての価値を与えられているのは、真蹟現存または曽存、もしくは直弟やせいぜい孫弟子辺りまでの古写本が存在するという点までだ。これに漏れる遺文(文献)は、特別にその史料的価値に言及してことわった上での利用以外、遺文としては扱えない状況にある。さらには、現在は直弟の古写本があったとしても内容に問題があるのではないかとひとたび眉唾になれば、遺文にあらずのレッテルが貼られてしまう。そこまで慎重に遺文は扱われている。
 最近は、直弟以下の文献についても同じような対応が出始めており、今後は益々文献に対して慎重な態度が出てくることが予想される。
 そこで、本史料に目を転じよう。まず、現在の遺文と同様に厳しい態度で接したとき、室住氏や岡氏が指摘したように第一級の史料として用いてはいけないことになる。それは、天文2年(1533)の写本が初見であるという点だ。「宗祖遺文は後世の写本だからダメだ。でも、歴世の文献は良い」では不公平になってしまう。となれば、まずは本史料も疑点ありという見方から入るべきであろう。

 と、厳しい意見を述べたが…。
 こういうことを主張する私であるが、私自身は本来もう少し柔和な考えを持っているつもりなのだ。というのも、文献に慎重な態度――特に、真蹟以外を認めないような状況――は、歴史学的な視点としては最高の環境であるのかも知れないが、最近のそれはあまりに極端すぎるように思えるからだ。そう思うのは、残念ながら、そのテキストの慎重さに乗じて、他宗を批判して自宗を優位に見なす護教的な見解が披瀝されているような論著・発表も最近ちらほら散見されるようになってきた。私はこうした状況に、両手を挙げて賛同することはできない。かえって不幸であるとさえ思える。
 テキストの信憑性を求めて厳しい環境に置いたはずが、自分の思想・教理の優位性を説く手段とされてしまっていることは極めて遺憾であり、これでは真実の宗祖の言葉に耳を傾ける精神とは大きく掛け離れた態度であるといえよう。
 基準を厳しくしても良いが、そこから漏れたもの(真蹟や古写本がない遺文・文書類)の中にも絶対に宗祖遺文があると私は確信しており、また諸寺歴世などの中世諸師の文献も同様である、と私は思う。そのような考えであるから、一番大切なのは古写本がないから偽書だなどと捨て去るのではなく、様々な視点から、それも客観的視座において検討する必要があるといいたい。
 結論ありきで捨て去るのではなく、まずは文献を洗い直すことを大事にして頂きたいということを考えて頂ければ幸いである。

●私の本史料観
 本史料を一読すると、非常に興味深い記事が多く含まれている。日蓮聖人が田畑を耕す指導をしたことなどの人間くささを語る反面、山城次郎なるものの不埒な行動から起こしたことを見通した通力などを記しているなど、今までには語られなかった物語的な内容が多分に載せられている。また、遺文中に見られない名前も多くあるほか、聖人滅後の門下の動向、諸師の悪事なども載せられていて、実に内容は新鮮なものばかりである。
 本史料が「第一資料に近くまで推挙するに足る」のならば、こうした記録が生きてくるのだが、私は、本史料を室住氏や岡氏のように否応なしに肯定することは、早計ではなかろうか、と思うのである。
 その最大の理由としては、上記で史料に対して柔軟な態度を示した私であるが、やはり本史料の書写本が天文2年(1533)であるというところには少々引っかかる。それは内容面からも、進師のものと直ちに受容できないように思うからだ。天文2年には既に行学日朝師の『元祖化導記』が成立している時期に当たる。
 『元祖化導記』の成立に当たり、朝師は忠実な事蹟の再現を心がけているように思え、それは「御書云」や「或記云」などの引用形態によって理解される。とはいえ、内容を見ていくと、引用部分以外にも今まで見られなかった記述があるなど、直ちにその伝承を聖人の事蹟と位置付けることはできず、一々に検討を加えるべきである。
 本史料は、『化導記』のそれに輪をかけた内容になっている。人の名も、全く遺文に見られないものが数多く挙げられていることには少なからず疑問を感じるし(例えば、「第二」の義一房・慈義房。「第十」の山城次郎など)、宗祖の神聖化も多分に見られる(例えば、「第十」など)。「第八」は、老僧が寒いと言うことに対して「寒いなら着るものを脱いで水を浴びろ」と言ったなどとあるが、そんなこと言ったのか??と疑問を感じた。全体を一読した読後感があまりにも内容的に疑問を感じるのは、果たして私だけのことなのだろうか…。
 もう一つ。これは、史料の信憑性とは関係がないが、本史料の文章がいまいち理解できないことが多い。これは直人氏も困惑していたところだ。また、他の掲示板ではこの文章がおかしいことを指摘して、「原本を公開しろ」などと記すものがいたが、そうした出せ出せとばかり言っているような者の議論はさておいても、やはり文章になっていない内容が多いことには少々気になるのは確かだ。室住博士の読み違いなのかも知れないが、できたら再度の解読をお願いしたいところでもある。そして、欲を言えば実見の上からの書誌的な検討が出されたなら、それ以上の喜びはない。

●興風談所と本史料
 一点、本史料に関して、興風談所による見解に対して私が抱いている疑問点を述べておきたい。
 興風談所では、本史料を信憑性のある史料として使用している。その一例を挙げれば、池田令道師の「波木井日円状の系年について」(『興風』11号251頁註(65)参照)や、菅原関道師の「重須本門寺所蔵の『頼基陳状』両写本について」(『興風』15号所収)では「内容的に信用のおける史料」(176頁)などと述べているとおりである。興風談所の学問的スタンスは、書誌学的な立場から行う研究が多く、文献・理論に対しては緻密な考究が披瀝されていて、その研究態度は見習うべき事も多い。しかし、ところどころで論旨に主観性が見え隠れしているようにもみえる。宗派的な問題からなのかも知れないが―。本史料を「信用のおける史料」と位置付けたことで、私はなおさらその主観的なあり方を認識し、また疑問を抱くに至った。
 池田令道師は、静岡・大石寺に所蔵する門下の現存最古の祖師伝といわれる『御伝土代』の筆者を、大石寺4世・日道師から同6世・日時師まで時代を引き下げた(同師「大石寺蔵『御伝土代』の作者について」【『興風』16号所収】)。談所の論文を見ると、史料の成立時代を基本的に下げる傾向にあるが、『御伝土代』についても同様である。書誌学的な研究は読者にその緻密な方法を教えており、なるほどと思わせることしばしばなのだが、内容的な考察は主観的見解が披瀝されている。
 師は、『御伝土代』の成立背景に「門流意識」を見出し(439頁)、それが強調されるのは日時師の頃だとする。師は他の門流について並列的に述べてはいない。ただし、以下に述べる伝記という視点から見たとき、並列的な見解のもとに述べているように読みとれる。私が思う「門流意識」とは、日蓮聖人滅後早い時期に、いわゆる直弟子といわれる諸師において既に抱かれた意識であると、ということである。またそれは、富士の日興上人とその門下もそれに漏れないであろう。そうした実態を挙げればきりがない。そう考えたとき、池田師が主張するような「門流意識」が読みとれるからといって、その文献の成立の時代を引き下げること自体、誤った考えであると思う。
 ことに日進師は、「門流意識」という点を考えてみれば、中山日祐師との交流が知られており、そこに積極的な門流意識を見ることはできないようにも思う。しかるに、本史料の「第四」は身延霊山説が説かれている。また「第五」の日印師批判などを読むにつけ、徹底的・積極的な門流の意識が垣間見られる。日進師自身に門流意識が皆無だったなどと言うこと自体誤った考え方であるといえるが、ここまで積極的な他門流批判を徹底的に行ったのかは、日祐師との接点から考えてもあまりうなずけるとはいえないように私は思うのだ。
 また、池田師は伝記的要素としての「特異な記事」は室町初期が頃合いだろうとするが(449頁)、本史料にはその「特異な記事」が幾つか挙げられているように見える。こうしたことを直視しないで、無批判のうちに本史料に信憑性を与えることは、果たして正統な文献学的態度といえるのだろうか、疑問に思う。
 ちなみに、時系列に関係事蹟を挙げてみよう。
・1328 本史料の御物語
・1334 日進師寂(一説には1330)
・1341 日道師寂
・1369 日時師、大石寺6世となる
・1406 日時師寂
・1478 『元祖化導記』成立
・1510 円明日澄師寂(『註画讃』の著者)
・1533 本史料の書写本成立
 日進師は、『御伝土代』の筆者とされる日道師より早くに入寂している。本史料を「信用のおける史料」と位置付けるのは、それが日進師の仰せであることを受け入れてのことだろうが、上述したように今までにない(物語的・伝記的な)記述がされている本史料を、何の批判もなく受容している反面で、『御伝土代』のような素朴な祖師伝に対して「特異な記事」を積極的に訴えているところには、矛盾を感じずにはいられない。そうした理論立てが、私を『御伝土代』の筆者日時師説の受容に至るまでの説得力を感じさせない一つの要因になっている。
 ともあれ、私は書誌学的にも厳しい姿勢で史料に臨んでいるのなら、もう少し本史料に関してもなぜ「信用のおける史料」といえるのか、興風談所諸師にはもっと理論的な証明をして欲しいと思っている。

●おわりに
 以上、自分の考えを羅列してきたが、結論的にわたしが思うことは、本史料は日進上人の仰せによる記述ではないということである。内容的には非常におもしろいことが多く記されていて、もし日蓮聖人がそう語っていたならば大変に興味深いし、聖人滅後の身延山の様子なども書かれているから、非常に注目される内容である。聖人伝の書き換えさえ必要な部分も出てくるのだ。しかし、本史料を『日進上人仰之趣』とするのならどうしてそのようにいうことができるのか、まずは書誌学的なところから言及を始めなければならないと思う。
 現在の立正大学においても、そんなに本史料を重宝しているようには見えないように思う。かえって他の門流において注目しているところに、私は苦笑さえしてしまうのである。
 なお、日進上人には『立正観抄』の写本がある(『日蓮聖人遺文辞典歴史篇』875頁d参照)。こちらの信憑性はどうなのか。中古天台思想が濃厚な遺文を偽作と位置付ける方向性を求める昨今であるが、本史料を受容されている諸氏に、是非ともその真偽についてお尋ねしたいところである。

2007年4月23日 (月)

行学院日朝師著『元祖化導記』中の「或記」(下)

―承前―

12.西条花房の青蓮房の処より東条左衛門の宿所を過ぎ玉ふ時、前の大道にて景信の徒党数百人引率して合戦を致しおわんぬ。御弟子の一人左近亟と云ふ者に殺され玉へり。鏡忍房疵を蒙り身に完き処無く、左藤次疵を蒙る(一八)

13.文永五年戊辰後正月蒙古国より日本を襲うべきの牒状之れを渡す。此の牒状に就いて安国論に符合の旨書状を以って諌め玉へり(同上)

14.此の牒状公家に参着する事文永五年二月一日なり。之に就いて返牒有るべきや否や、牒使の首切るべきや否や、諸道の勘文を召し公卿の僉義数ヶ度有り。異儀様々なりしかば、返牒は無くして牒使計り追い返されにけり。是即ち虎を野に放ち、猪を飼うに異ならず。此の牒使夜々に筑紫の地を見廻り、船津軍場まで委しく差図をし、人の景気を相し、所の案内を注して帰りけり。其の後文永十一年十月五日の卯時に、対馬の国府の八幡宮の仮殿中より火炎ををびただしく燃え出つ。国府の在家の人等焼亡出来かと見程に幻なり。こは如何にと云ふ程に、同日申時に対馬西面さすの浦に異国の船四百五十艘三万人計り乗って寄り来る(二〇)

15.去る文永八年辛未六月十八日より二十四日に至る一七日の内に天下の仰せを蒙り、極楽寺の良観房雨を降らすべき由披露有り。上人の仰せには、小事たりと雖も此の砌に現証を以って法門の邪正を顕すべきものなりとて、其の比須防公入沢入道と申す念仏者之れ有り。之れに対して言ひ玉ふ様は、汝等は念仏者なり。未だ法華経を信ぜず。所詮現証を以って法の邪正を知るべし。若し七日の内に雨降れば、八斎戒念仏を以って浄土に往生すべしと之れを信ぜん。若し雨降らずんば一向に法華経を信ずべしと仰せ有りしかば、二人大いに悦び良観房の許に至りて申す様、日蓮御房の玉ひ候は良観房日来の御歎きを承るに及び、日本国の僧尼は二百五十戒五百戒、男女には五戒八斎戒等を一同に持たせんと思ふ処に、日蓮此の願を障る由時々に歎き玉ふと聞こえたり。若し七日が間一雨も降るならば、忽ちに御弟子と成って具足戒を持つ、念仏無間の業なりと云ふ法門を申し止めるべきの由言ひ玉ひ候は如何と申したりしかば、良観斜めならず之れを悦びて、七日の内に雨を降らすべき百余人の弟子を集め、身より煙を立て声を天響かし、或は念仏、或は請雨経、或は法華経、或は真言、忽ちにして小法大法残り無く之れを行ずと雖も、其の験之れ無し。已に四五日至れども更に以って雨の気之れ無し。亦上人使を遣わし七日の祈雨の已に半は過ぎぬ。何として雨の気之れ無きやらん。急ぎ速かに雨を降らし大旱魃の憂愁を救ひ玉へかしとありしかば、良観房以ての外に迷惑して、極楽寺・多宝寺等の数百人の弟子を召し集め肝膽摧きて祈れども、露程の雨も降らず。七日漸く過ぎしかば、又上人使ひを以って仰せらる様は、伝聞く、和泉式部と云へる遊女、能因法師と云ひし破戒僧、三十一字の和歌を以って雨を降らすと見えたり。良観房は持戒の上人ぞかし。法華・真言の義理を究め玉ふ。慈悲深重の名称有り。亦一人二人ならず数百人集会して丹精を抽ひて玉ふ処、七日の内一雨も降らず。大いに以って不審なり。二百五十戒を設ば拙しと云とも、狂言綺語の和歌に劣るべきの様は有るべき之れを以って之れを思へ。一丈の堀を越えざる者二丈三丈の堀を越ふべきか。祈雨の小事成就せざる人大事の仏道成すべきやと。此の如く七日の内三度に及び使いを遣わし責めしかども二七日まで雨降らず。結句炎旱弥々強盛なり。八風頻りに吹き、人民の歎き限り無し。されば上人より自今以後日蓮を誹謗玉ふな。所詮後世を恐れ玉はば来たり玉へ。降雨の法と成仏の法とを教へ奉ら(二二)

16.良久有りて兵士の方より使者を以って鎌倉へ腰越の子細を注進有り。又鎌倉より使者の立って腰越へ申し下さるる様は、鎌倉中に大なる物の恠るとも之れ有り。日蓮房誅すべからざるの由之れ有り。両方の使者七里浜にて行き合いおわんぬ。之れに依って其の夜死罪は御延引有り(三三)

17.十月十日同相州相京郡依智の郷を御出有り。其の日武州久目河の宿に着き玉へり。其の後十二日を経て越後国寺泊の津に着き玉へり。寺泊より御船に召して佐渡国に御着有り。彼の国にては新穂の郷の内塚原と云ふ処の小堂に住み玉へり(三八)

18.上人六郎左衛門尉に対し、鎌倉に合戦あるべし、上り玉へと仰せ有り。折節、本間殿在座の最中に印性房と申す念仏者来たりて、念仏無間の法門を難し申す。上人仰せに云く、流人の身として法門を申す事其の憚りあり。殊に此の流罪の根源は偏に法門に依るか。争でか聊爾に之れを申すべきや。印性房以下勝に乗って申しけるは、印性が前にては法門はさすが大事にぞ候はんずらんと利口に及ぶ。上人設へ如何様に申せられ候けれども、此の身法門申し難しと言ひ玉へば、六郎左衛門始めとして列座の諸人苦ふべからず。印性加様に望み申し候に、少々御法門候へ、我等も聴聞致すべしと有りしかば、上人面々に承り候間、憚り乍ら申すべき也。其の人の疑心を請へば返答せず闕学者の義か。されば形の如く対決有るべきか。但此の身は流人なり、御辺は此の国の住人なり。定んで法門に之れを負わざるの由披露有るべきか。其義ならば対決所詮無し。肝要自他の法門を書き付けて勝負を知るべきかと仰せ有りければ、六郎左衛門の此の義最もなるべしとて筆墨を出し玉へり。先印性房浄土宗の法門の立つ様申すべきとて、正道浄土と書き畢んぬ。上人御覧有りて軈て其の知略を推察有って、彼が云う所一々に之れを責め玉へり。述計の後観経に六即の法門之れ有り。上人仰せに云く、此の事未だ及び承らず候。観経に此の法門は有り難しと覚え候か。但し此の六即は鸞綽導法然等師資の中には何師の立る所にて候やらん。印性房云く、設へ祖師の所立之れ無きと雖も、其の義歴然ならば何をか之れを立つるや。凡そ六即の法門は天台大師始て之を立て玉へり。印性も観経に六即を立て候はんに何の失有るや。上人云く、此の身隠者なるが故に観経の六即を知らずかと存じ候へば、佐渡国於て初て立と云へる六即の法門なるが故に、兼日知らざるも道理にて候けるやと嘲せられ参ければ、諸人軽笑しける事限り無し。印性房赤面し当座の恥辱申す計り無し。守護所に於て恥辱に及ぶ上は、此の事隠せる無しと雖も、佐渡国中走り廻りて印性房日蓮房に勝法門の由披露し畢。されども其の隠るる無き故、諸人印性を毀事思い遣せ玉ふべし(四四)

19.佐渡公・伯耆二人佐渡に御参有り。上人仰せに云はく、この国に印性房と云へる念仏者之れ有り。此の方に元より有る御房達をば之れを見知りて出合はず。旁々旅装束の躰にて彼の処に行向ひて法門一言申すべし。伯耆公釣鎖(こうさ)して佐渡公に法門申さるべしと云々。仰せの如く行向玉へり。折節浄土宗の談義始めんとする砌なる故に、我等二人立寄り談義聴聞の望なる由の玉ひければ、印性云はく、何づ方より修行の者なるや。答えて云はく、鎌倉辺りよりと云々。印性云はく、鎌倉に某房と申す者念仏無間の悪義を興して当国へ流罪せらる事之れ知るや。答えて云はく、我等は奥州の住人なるが此の間暫時に鎌倉へ上る間、左様の事存知せず候。印性云はく、さも有らん。件の邪義の法師は此の近里に有り。弥陀超世の悲願に迷へる大罪人なり。提婆・瞿伽利、者の数ならず。二人云はく、何とて左様の悪義をば之れを呵責無きや。印性云はく、いろうて何かせん、悪義を興せば彼が罪にこそと云々。難じて云はく、さては御辺は仏法中怨の科遁れ玉ふべからず。若し然れば定めて阿鼻の大苦を招くべし。糸惜々々(いとおしいとおし)。印性云はく、此の御房達は某房の弟子なりけりとて内に入りぬ。二人云はく、此の所に臨む事は、汝権実ニ教に迷惑して邪見熾盛なる由聞くに及ぶ故に、一句の法門をも示して逆縁の為とも思ふ故なり。師の迷いを以っての故に他人教を迷はす不便の次第なり。哀れ発心有る上人の御房へ参り捨邪帰正候へかしとて帰り玉へりと云々。去る程此の遺恨によって印性房が弟子旦那百余人を引具して守護処に出て様々に訴詔に及ぶ。守護処に於いて問答有り。謗法の科至極承伏する上、座席を追い立てられ候き。其の後一両日を隔て聖人御講談の時、聴衆の中より尼一人進出して云はく、去る比法華経の三巻迄は女と云ふ字之れ無しと仰せられ候つるかと云々。上人是を聞き召し、此の尼の躰を御覧じての玉ふ言い様は、人々是を御覧ぜよ、某弟子の中には加様に懇志の人は有るべしとも覚えず。是は先日問答にいたく誥(つま)りたりつる印性房を扶けんが為に来たる尼公と見えたり。其の志有り難し。但し尼御前に誥(つげ)る事をば有るべからず凡そ斯くの如き例証之れ有り。昔天竺に摩踏婆外道と云ふ者あり。徳恵菩薩につめられて、我が家に帰り七日と云ふに死におわんぬ。彼の外道の妻夫の憤りを果たさんが為に、夫を葬送し、其の後王城に到り、菩薩に対して論議を望む。国王問うて云はく、何なる物ぞ。女之れに答(四五)

20.此の書状を以って証文となす、国中下知の様称計すべからず。或は日蓮房の一類佐渡より陸地に越へる者之れを渡すべし。鎌倉より佐渡に渡る者堅く之れを禁ずべしとて、津毎に之れを制し、船毎に之れを制す。或は市町売買等一類を堅く禁制の間、御住房に敢へて来たる人之れ無し。其の躰思ひ遣はされんこそ候へ(同上)

21.卯月八日頼綱に対して委細に之れを述べ玉へども、敢へて承引無し。其の比旱魃あり。阿弥陀堂の加賀法印に仰せられ雨の祈り之れ有り云々。上人云はく、只今国土損亡すべし。同四月十二日小雨降る。諸人歓喜す。即時に大風吹き、多くの人屋を損し樹木をそこなう。之れに依って国土以下飢饉せし(四九)

22.五月十二日鎌倉より酒輪迄なり。十三日竹下、十四日車還、十五日富士大宮、十六日南部、十七日波木井(五七)

23.凡そ一期の行儀称記し難し。毎日の所作、早旦に持仏堂に入り法華経一巻、十日十巻読誦之れ有り。幾度斯くの如く一巻経の後日天の御前に於いて方便品・宝塔品・勧持品・涌出品・神力品等、是等の要品誦し玉ふ事二度計りなり。日中には法門談義之れ有り。日夕には同音に方便品・寿量二品之れを誦し玉へり。其の外昼夜朝暮の行学称計すべからず(五九)

24.弘安五年壬午九月八日午尅身延沢を出御有り。其の日は下山兵衛四郎の所に一宿、九日大井庄司入道、十日曽弥次郎、十一日黒駒、十二日河口、十三日くれじ、十四日竹下、十五日関本、十六日平塚、十七日瀬野、十八日午尅武州荏原郡千束郷池上村に着き玉ひおわんぬ。同九月廿五日鎌倉田中より信者の輩上下参り集まる。折節立正安国論を御談義之れ在り。皆人列座の砌、上人仰せに云はく、我今三七日之内に死すべし云々。又鎌倉三室の人々参るに、種々の法門を述べ玉へり。凡そ悉達太子は十九にして王宮を出て、旦特山・頗利那山と云ふ処にして剣を抜き髪を切り御出家の後、難行苦行の功を積み、三十成道の後五十年、一代聖教を説ひて御年八十歳にして跋提河の辺にして滅を示し玉へり。生死無常の理をば仏も猶免れ給はずと見えたり。況や予は凡夫なり。然れば即ち武州田波河の辺にして入滅すべし。其の時節堅牢地神等身を振るひ悲歎あるべし。定んで其の験しあるべし。我入滅度後の墓をば身延山に立つべし。老人等行歩叶はずして自身の参詣の力之れ無くば、花の一枝なりとも誂(あつ)らえても参らすべし。即ち我之れを納受すべき等仰せ有りければ、老者の類は何も悲涙押さえ難く罷り却けると見えたり(同上)

25.九月十八日池上地頭左衛門太夫宗中が家に御入あり。十月八日本弟子六人定め玉へり。 定 御子六人事 次第不同  一蓮華阿闍梨日持 一伊予公日頂 一佐渡公日向 一白蓮阿闍梨日興 一大黒阿闍梨日朗 一弁阿闍梨日昭  右六人は本弟子となす。仍って向後の為に一々定むる件の如し 弘安五年十月八日 右筆日興(六一)

26.十月十二日酉剋北に向ひて坐し玉ふ。御前に机を立て花を供へ香を焼き、年来御安置の木像の釈迦仏を立参らせんかと申したりければ、目を挙げて御覧有って面を振り玉ふ。ある弟子御真筆の大曼荼羅を懸け奉るべきかと伺ひ申されければ、尤もと答へさせ玉ふ間、仏像を少し傍らへ押し寄せ参らせて、御真筆の妙法蓮華経の曼荼羅を懸け玉ふを御覧有り。其の後十三日の卯の尅計りに鎌倉より宗仲夫妻ども参りて、御枕本にて只今参る由申しければ、御目を開き有って答へ玉ふ。即十三日辰尅御遷化おわんぬ。御年六十一なり。爾の時大地大いに震動しき。釈尊御入滅の尅、人天大会最後の供養慇懃なりしか。末法の仏勅使御涅槃の折節、四部の弟子達供養奉る有り様誠に之れ貴し。兼日仰せの如く堅牢地神までも身を振い悲歎ある色顕れて地震等御座けるか(六二)

27.御終焉近くなって日朗以下の老僧達に対して仰せられけるは、我死するならば全身を瓶に奉納して其のまま身延山に送り置くべし云々。日朗申しられけるは、一日半日の間ならば仰せの如くあるべきか。既に三日四日の路次の伝で野に臥し山に臥す様にては届け難しと申す。御存生の折節さへ謗法の者充満の国なれば路頭も輙からず。況や御身骨を左様に致さん事は叶ひ難かるべし。簡要隠便に葬送し奉りて、御身骨を残さず身延山に入り奉るべきの由申しられければ、此の義尤もなり。然れば日朗等宜しく相計るべきの旨仰せられけり(同上)

28.御遺言に任せ十月廿一日池上より飯田まで、廿二日湯本、廿三日車返、廿四日上野、廿五日甲斐国に入り玉へり。同十月廿九日御そ木を取り御影像を建立之れ在り。作者は御弟子日法。七々日御仏事御入堂之れ在り。一百ヶ日御墓を立ておわんぬ。軈て御舎利を奉納す(六四)

―以上―

 誤記等お気づきの点がございましたら、ご指摘をお願い致します。

2007年4月 7日 (土)

行学院日朝師著『元祖化導記』中の「或記」 (上)

◇◆はじめに◆◇

 身延11世・行学院日朝師は、多くの著述を残した。その中には『元祖化導記』という日蓮聖人の伝記の著作がある。この『化導記』は遺文などをもとに、忠実に聖人の生涯を語るべく編纂されている一書で、祖師伝を研究する上では必須の文献の一つである。
 そのように注目される理由は、一番古い体系的な祖師伝であるということのほかに、この伝記の引用には「或記云」という引用があることもその要因として挙げられよう。すなわち、朝師が引用した「或記」という記録が、果たして何を引用しているのかという点による注目である。私が立正大学において教授より聞いた話によれば、過去に影山堯雄先生が様々に調べてみたようだが、半分程度までしか追求できなかったという。
 現在でも議論は尽きず、幾つかの論著にも「或記」の原典についての検討がされているが、すべて確実ではないから、なおさら興味深い。

 『化導記』は、すでに全文が、他のホームページに掲載されている。

http://www.ginpa.com/karagura/kedoki.html
http://www.ginpa.com/karagura/kedoki2.html

したがって、これを参考にすればよいと思う。
 以前、私もこの「或記」に興味を示して、それを考えるにはどうしたらよいのか色々と考えた末、まずは或記だけを抽出してデータ作りをしようと思い、『日蓮教学研究所紀要』2巻所収本を用いて作成した(なお、不備な点などは本満寺版『日蓮聖人伝記集』で補って作成した)。そうして、或記について簡単な論文を書いてみたのだが、それは現在でも日の目を見ていない。たいしたものではないから、今後も公開することはないだろうが…。
 「或記」だけを抽出すると、また違った見方ができると思う。また、上記のサイトは『伝記集』を使っているが、私は『日教研紀要』所収本を使用している等の差異もあるから、過去に作成したデータではあるが、何回かに分けてあげることにした。
 なお、便宜上、順番に番号をふった。また、最後には『紀要』のページ数(漢数字)をつけておいた。

1.元祖誕生の二月十六日辰刻(四)

2.其先祖は遠州の貫名五郎重実なり。平家の乱安房国流罪せられおわんぬ。然るに重実に二人の子有りき。長男は之を知らず。次男貫名次郎重忠に五人之れあり。一藤太、二幼少にして死したまう。三仲三郎、四元祖聖人なり。五藤平云云。仍父母の法名をば日蓮の二字を名け奉り玉へり。父妙日は二月十四日也。母妙蓮は八月十五日逝去也(同上)

3.五月十二日御登山(五)

4.清澄寺は慈覚建立の処、本尊は虚空蔵菩薩なり。明星池とて今に之在り。本地垂迹の意趣顕と見えたり(同上)

5.十月八日の御出家なり(同上)

6.童体をば薬王丸と号す。御出家の初めの仮名は是生なり。実名は蓮長なり。後に之を改めて日蓮と号し奉るなり。詳しくは別紙に有り(同上)

7.御出家の最初虚空蔵菩薩の御前に於いて、世比類無き智者にしてたび給へと強盛に御祈りありしかば、後門の方よりと覚気高き老僧一人出来て、虚空蔵所持の如意宝珠を手に執り持ち、汝が年来祈りつる智恵を只今与ふるとて聖人の御方へ投げ渡させ玉へば、此の玉相違無く飛び来て左袖へ入とむ夢相を蒙る。願望成すと御悦びありて、遠く他国に趣き広く諸宗を学する程に、南都・北嶺・東寺・高野残り無く之を伺う、宗宗の淵底を究め玉へり(六)

8.初めには浄土宗を習ひ本山に還り寺僧等に之を教ふ。其の後念仏者臨終に不審有る故に、浄土宗を捨つ。亦諸国を廻って律法を習ひ玉へり。然るに三衣一鉢を帯し律儀を守ると雖も、小乗戒に於いて成仏の道無きの間即ち之を捨ておわんぬ。次に禅宗を習学して坐禅工夫の門に入ると雖も、其の証之れ無きが故に即ち禅宗を捨つ。次に真言宗に入りて学び玉ふ時、善無畏・金剛智・恵果・弘法等の疏釈に於いて邪見謗法の筆之れ多し。即ち之れを捨つ。亦天台宗に入りて山門・三井を経て年月を送り玉へり。亦奈良七大寺を経て六宗を尋ぬ。是の如く諸宗学門し御座すとて仏法の権実顕教密教の雑乱其の誤り称計すべからず。宗々の碩徳に値ひて之を尋ね求むと雖も、其の疑ひ更に以って散り難きものなり。然る間自ら経蔵に入りて諸経を披見し玉ふ処に、諸宗元祖悉く本経本論に違ふ、其の科顕然なり。之れに依って邪正簡別の化導を興し玉へり(七)

9.導善御房持仏堂南面に於いて一寺の大衆集い、念仏は無間の業となすべき旨之れを談じ玉へり。師匠も坐を立ち、大衆も驚き去る。此の事国中風聞の間、地頭強盛の念仏者なるが故に、忽ちに清澄寺擯出しおわんぬ。然る間、上人長狭郡西条へ越へて花房郷青蓮房に住し玉はば、西条の地頭亦以って念仏者の故に、外には堂供養導師となして之れを請ひ奉る、内には之れを殺害せんと欲するなり。其の時上人此の事を知めすと雖も、態と彼の請ひに越へ件の堂に至り御説法有り。仍って無縁の弥陀に帰し有縁の釈迦に違ふ故に、堂を造り弥陀を安置すると雖も、阿鼻獄に堕つべきの由憚り無く述し玉ふ。之れを聞く人々色を損なひおわんぬ。既に殺し奉らんと欲する処に、上人供奉の旁、大力人多々なる故に及ばずして力に逃し申しけるか。仍上人御堂の縁より馬にめされ宿所に帰り玉へり。此の如く留難称計すべからず。其の後軈(やが)て鎌倉へ御上あって名越の小庵に住し玉へり。毎日名越山中に入御あって、高らかに声首題を唱へ玉ひき(九)

10.正嘉大地震に驚きて勘文一巻立正安国論と号して、去ぬる文応元七月十六日宿屋左衛門入道に属い、最明寺殿に見参に入り玉へり。御沙汰の由有るべき存じらると雖も、皆是れ念仏者の弟子旦那なるが故に沙汰に及ばず、由無く閣きおわんぬ。然る間念仏者等数千人の旦那を引率して、夜中に聖人の御房へ押し寄せ既に殺害を欲す。御弟子能登公・進士太郎疵を蒙るなり。上人多勢の中を破り、其の夜の殺害を遁れ玉へり。然りと雖も夜討の輩、念仏者等遂に罪科無くして止みにき。此れ等は鎌倉名越の小庵にての御事なり(一三)

11.弘長三年に伊東より赦免あり。翌年に父の御墓を拝さんが為に安房国へ御下有り。其の比八旬に及び玉ふ老母御坐しましき。上人を見奉り歓喜し玉ふ事限り無し。然りと雖も生死の習ひなれば、病苦を受け即ち死に玉へり。上人悲嘆の余りに深く精誠し祈念し玉ふ様は、我若し弘通の功を遂って法華遂に一閻浮提に広宣流布せしむるべきは、老母の命今度計り助け給へと念じ玉ひ、人を山野に遣はし華を折り浄水を結って道場を荘厳し読経念誦し玉ふ処に老母速やかに活り玉へり。平復此の如し。見聞の輩誠に以って奇異の思ひを成しおわんぬ。其の後四ヶ年存命し玉ひき。其の後導善御房に向ひ奉り種々問答之れ在り。即ち念仏を申し止め、釈迦の像を造り、持仏堂に安置し玉ひけり(一六)

―この項、つづく―

2007年3月24日 (土)

三大秘法禀承事のこと(再掲)

以前記した『三大秘法抄』のことについては残しておきたかったので、再掲したいと思う。

先日、ちょっとしたことを調べるために、春日正三氏の日蓮聖人遺文を国語学的な立場から考察した論文を2・3読んだ。
日蓮聖人遺文については、近年、特に真偽論について検討されているが、やはり教学的な考え方から判断されることが多い。しかし、歴史学的な立場や民俗学的な立場からのアプローチもあって、様々な視点から論じることができるんだと思ったものだったが、今回、春日氏の論文を読むことで、国語学的な立場からも議論されるんだということを改めて実感した。

その読んだ春日氏の論文の中で、宮崎英修先生古稀記念論集『日蓮教団の諸問題』(昭和58年・平楽寺書店刊)に所収された、「日蓮聖人遺文の用語研究―形容動詞語の一断面―」と題する論文には、文部省(当時)統計数理研究所(中心者・村上征勝先生)によって、『三大秘法抄』の調査がなされ、その研究に基づいた考察がなされていた。
用語の使用法を統計・数理化することで、真偽を判定するというもので、これは立正大の伊藤瑞叡先生とともに研究が進められ、結果的に『三大秘法抄』は真書という判断がなされた(詳しくは、同編著『なぜいま三大秘法抄か―計量文献学入門』【1997年、隆文館刊】、『三大秘法抄なぜ真作か―計量文献学序説』【1997年、隆文館刊】、『三大秘法抄の真偽論争』【2003年、隆文館刊】など参照)。これに対し、宗学的な立場からは批判的な見解が提示され(例えば、冠賢一稿「文部省統計数理研究所の「三大秘法禀承事」真作説に対する疑義」【『大崎学報』148号、1992年】など)、数度の議論がなされたものの、結果的にはどっちもメリット・デメリットがあるという、いわばグレーで止まっているように思える。

この『三大秘法抄』について、幾つか思いついたことを少々…。

私の修士課程の同窓生で、日蓮聖人は「三大秘法」とは述べていないという見解を持っていた人がいた。これから考えていったら、『三大秘法抄』は何度か「三大秘法」という言葉が使われているから偽書になる。
しかし、日蓮聖人の使用した言葉はどうであれ、三大秘法である「本門の本尊・本門の戒壇・本門の題目」を弘通することを目的とされたことは、報恩抄等様々な遺文に明瞭に説かれている。
ただし、もし『三大秘法抄』が偽作ならば、ここに記された、

戒壇とは、王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて、有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是なり。三国並びに一閻浮提の人懺悔滅罪の戒法のみならず、大梵天王・帝釈等の来下して踏み給ふべき戒壇なり

というような具体的な戒壇義が全く説かれないまま、日蓮聖人は入寂を迎えたことになるのだ。確かに、「本門の戒壇」について、後世、事壇とか理壇とか様々に議論され、結局混乱を招く種となっていたのも事実である(詳しくは小松邦彰稿「本門戒壇について」【宮崎英修先生古稀記念論集『日蓮教団の諸問題』、昭和58年・平楽寺書店刊】など参照)。
私個人的な意見としては、日蓮聖人が戒壇の意義を説かないまま、後世建立するようにとだけ弟子に言い残して寂に入られたのなら、少し無慈悲な感じがする。
日蓮聖人は弘安年代は常に「はら」の病で苦しまれていたことは遺文に明瞭だが、そういう中でも弟子育成と多くの檀越に対する書状なども残されているように、積極的に教団を意識された晩年であったことは否めないから、やはり「戒壇」についても、何らかの形で残されたのではないかなと思うのだ。
こうした意見を、護教的とか主観的といわれればそれまでかもしれないが、まぁもっともっと色々なことを学んでいって、『三大秘法抄』が真書なのか偽書なのかということを明確にして議論できればいいなと思っている。

もう一つ、具名である「三大秘法禀承事」の読み方だ。
「禀」を漢和辞典でひくと、漢音が「ヒン」呉音が「ホン」と読むそうだ。仏教は呉音読みだから、ホンと読むべきだ。
石田瑞麿著『例文仏教語大辞典』(1997年・小学館刊)では「禀承」をホンショウと読ませている。ちなみに意味は「師より受法すること。教えを習い受け継ぐこと」(1001頁A)とある。
これらに倣えば、サンダイヒホウホンショウジと読むのが通常かもしれない。しかし、私は先輩に三大秘法ボンジョウジと教えてもらい、今でも仏前などにおいても、研究の中でも、いつもそのように読んでいる。
そこで、諸辞典を見てみると、『日蓮聖人遺文辞典・歴史篇』では、宮崎英修先生の執筆になるが、三大秘法ホンジョウジと読ませている。『日蓮宗事典』では、小松邦彰先生の執筆で三大秘法ボンジョウジと読ませている。ちなみに、創価学会の『仏教哲学大辞典』では三大秘法ボンジョウノコトと読ませている。
区々さに少し笑ってしまったが、「」か「」かの違いであり、「事」を「コト」と読むか「」と読むかの違いだけで、そんなに大きな差異があるわけでもないので、あとは自分の好きでいいのかもしれない。まぁ、自分はこれからも三大秘法ボンジョウジと読み続けようと思っているのだが…。

(2007/2/14記)

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