―承前―
12.西条花房の青蓮房の処より東条左衛門の宿所を過ぎ玉ふ時、前の大道にて景信の徒党数百人引率して合戦を致しおわんぬ。御弟子の一人左近亟と云ふ者に殺され玉へり。鏡忍房疵を蒙り身に完き処無く、左藤次疵を蒙る(一八)
13.文永五年戊辰後正月蒙古国より日本を襲うべきの牒状之れを渡す。此の牒状に就いて安国論に符合の旨書状を以って諌め玉へり(同上)
14.此の牒状公家に参着する事文永五年二月一日なり。之に就いて返牒有るべきや否や、牒使の首切るべきや否や、諸道の勘文を召し公卿の僉義数ヶ度有り。異儀様々なりしかば、返牒は無くして牒使計り追い返されにけり。是即ち虎を野に放ち、猪を飼うに異ならず。此の牒使夜々に筑紫の地を見廻り、船津軍場まで委しく差図をし、人の景気を相し、所の案内を注して帰りけり。其の後文永十一年十月五日の卯時に、対馬の国府の八幡宮の仮殿中より火炎ををびただしく燃え出つ。国府の在家の人等焼亡出来かと見程に幻なり。こは如何にと云ふ程に、同日申時に対馬西面さすの浦に異国の船四百五十艘三万人計り乗って寄り来る(二〇)
15.去る文永八年辛未六月十八日より二十四日に至る一七日の内に天下の仰せを蒙り、極楽寺の良観房雨を降らすべき由披露有り。上人の仰せには、小事たりと雖も此の砌に現証を以って法門の邪正を顕すべきものなりとて、其の比須防公入沢入道と申す念仏者之れ有り。之れに対して言ひ玉ふ様は、汝等は念仏者なり。未だ法華経を信ぜず。所詮現証を以って法の邪正を知るべし。若し七日の内に雨降れば、八斎戒念仏を以って浄土に往生すべしと之れを信ぜん。若し雨降らずんば一向に法華経を信ずべしと仰せ有りしかば、二人大いに悦び良観房の許に至りて申す様、日蓮御房の玉ひ候は良観房日来の御歎きを承るに及び、日本国の僧尼は二百五十戒五百戒、男女には五戒八斎戒等を一同に持たせんと思ふ処に、日蓮此の願を障る由時々に歎き玉ふと聞こえたり。若し七日が間一雨も降るならば、忽ちに御弟子と成って具足戒を持つ、念仏無間の業なりと云ふ法門を申し止めるべきの由言ひ玉ひ候は如何と申したりしかば、良観斜めならず之れを悦びて、七日の内に雨を降らすべき百余人の弟子を集め、身より煙を立て声を天響かし、或は念仏、或は請雨経、或は法華経、或は真言、忽ちにして小法大法残り無く之れを行ずと雖も、其の験之れ無し。已に四五日至れども更に以って雨の気之れ無し。亦上人使を遣わし七日の祈雨の已に半は過ぎぬ。何として雨の気之れ無きやらん。急ぎ速かに雨を降らし大旱魃の憂愁を救ひ玉へかしとありしかば、良観房以ての外に迷惑して、極楽寺・多宝寺等の数百人の弟子を召し集め肝膽摧きて祈れども、露程の雨も降らず。七日漸く過ぎしかば、又上人使ひを以って仰せらる様は、伝聞く、和泉式部と云へる遊女、能因法師と云ひし破戒僧、三十一字の和歌を以って雨を降らすと見えたり。良観房は持戒の上人ぞかし。法華・真言の義理を究め玉ふ。慈悲深重の名称有り。亦一人二人ならず数百人集会して丹精を抽ひて玉ふ処、七日の内一雨も降らず。大いに以って不審なり。二百五十戒を設ば拙しと云とも、狂言綺語の和歌に劣るべきの様は有るべき之れを以って之れを思へ。一丈の堀を越えざる者二丈三丈の堀を越ふべきか。祈雨の小事成就せざる人大事の仏道成すべきやと。此の如く七日の内三度に及び使いを遣わし責めしかども二七日まで雨降らず。結句炎旱弥々強盛なり。八風頻りに吹き、人民の歎き限り無し。されば上人より自今以後日蓮を誹謗玉ふな。所詮後世を恐れ玉はば来たり玉へ。降雨の法と成仏の法とを教へ奉ら(二二)
16.良久有りて兵士の方より使者を以って鎌倉へ腰越の子細を注進有り。又鎌倉より使者の立って腰越へ申し下さるる様は、鎌倉中に大なる物の恠るとも之れ有り。日蓮房誅すべからざるの由之れ有り。両方の使者七里浜にて行き合いおわんぬ。之れに依って其の夜死罪は御延引有り(三三)
17.十月十日同相州相京郡依智の郷を御出有り。其の日武州久目河の宿に着き玉へり。其の後十二日を経て越後国寺泊の津に着き玉へり。寺泊より御船に召して佐渡国に御着有り。彼の国にては新穂の郷の内塚原と云ふ処の小堂に住み玉へり(三八)
18.上人六郎左衛門尉に対し、鎌倉に合戦あるべし、上り玉へと仰せ有り。折節、本間殿在座の最中に印性房と申す念仏者来たりて、念仏無間の法門を難し申す。上人仰せに云く、流人の身として法門を申す事其の憚りあり。殊に此の流罪の根源は偏に法門に依るか。争でか聊爾に之れを申すべきや。印性房以下勝に乗って申しけるは、印性が前にては法門はさすが大事にぞ候はんずらんと利口に及ぶ。上人設へ如何様に申せられ候けれども、此の身法門申し難しと言ひ玉へば、六郎左衛門始めとして列座の諸人苦ふべからず。印性加様に望み申し候に、少々御法門候へ、我等も聴聞致すべしと有りしかば、上人面々に承り候間、憚り乍ら申すべき也。其の人の疑心を請へば返答せず闕学者の義か。されば形の如く対決有るべきか。但此の身は流人なり、御辺は此の国の住人なり。定んで法門に之れを負わざるの由披露有るべきか。其義ならば対決所詮無し。肝要自他の法門を書き付けて勝負を知るべきかと仰せ有りければ、六郎左衛門の此の義最もなるべしとて筆墨を出し玉へり。先印性房浄土宗の法門の立つ様申すべきとて、正道浄土と書き畢んぬ。上人御覧有りて軈て其の知略を推察有って、彼が云う所一々に之れを責め玉へり。述計の後観経に六即の法門之れ有り。上人仰せに云く、此の事未だ及び承らず候。観経に此の法門は有り難しと覚え候か。但し此の六即は鸞綽導法然等師資の中には何師の立る所にて候やらん。印性房云く、設へ祖師の所立之れ無きと雖も、其の義歴然ならば何をか之れを立つるや。凡そ六即の法門は天台大師始て之を立て玉へり。印性も観経に六即を立て候はんに何の失有るや。上人云く、此の身隠者なるが故に観経の六即を知らずかと存じ候へば、佐渡国於て初て立と云へる六即の法門なるが故に、兼日知らざるも道理にて候けるやと嘲せられ参ければ、諸人軽笑しける事限り無し。印性房赤面し当座の恥辱申す計り無し。守護所に於て恥辱に及ぶ上は、此の事隠せる無しと雖も、佐渡国中走り廻りて印性房日蓮房に勝法門の由披露し畢。されども其の隠るる無き故、諸人印性を毀事思い遣せ玉ふべし(四四)
19.佐渡公・伯耆二人佐渡に御参有り。上人仰せに云はく、この国に印性房と云へる念仏者之れ有り。此の方に元より有る御房達をば之れを見知りて出合はず。旁々旅装束の躰にて彼の処に行向ひて法門一言申すべし。伯耆公釣鎖(こうさ)して佐渡公に法門申さるべしと云々。仰せの如く行向玉へり。折節浄土宗の談義始めんとする砌なる故に、我等二人立寄り談義聴聞の望なる由の玉ひければ、印性云はく、何づ方より修行の者なるや。答えて云はく、鎌倉辺りよりと云々。印性云はく、鎌倉に某房と申す者念仏無間の悪義を興して当国へ流罪せらる事之れ知るや。答えて云はく、我等は奥州の住人なるが此の間暫時に鎌倉へ上る間、左様の事存知せず候。印性云はく、さも有らん。件の邪義の法師は此の近里に有り。弥陀超世の悲願に迷へる大罪人なり。提婆・瞿伽利、者の数ならず。二人云はく、何とて左様の悪義をば之れを呵責無きや。印性云はく、いろうて何かせん、悪義を興せば彼が罪にこそと云々。難じて云はく、さては御辺は仏法中怨の科遁れ玉ふべからず。若し然れば定めて阿鼻の大苦を招くべし。糸惜々々(いとおしいとおし)。印性云はく、此の御房達は某房の弟子なりけりとて内に入りぬ。二人云はく、此の所に臨む事は、汝権実ニ教に迷惑して邪見熾盛なる由聞くに及ぶ故に、一句の法門をも示して逆縁の為とも思ふ故なり。師の迷いを以っての故に他人教を迷はす不便の次第なり。哀れ発心有る上人の御房へ参り捨邪帰正候へかしとて帰り玉へりと云々。去る程此の遺恨によって印性房が弟子旦那百余人を引具して守護処に出て様々に訴詔に及ぶ。守護処に於いて問答有り。謗法の科至極承伏する上、座席を追い立てられ候き。其の後一両日を隔て聖人御講談の時、聴衆の中より尼一人進出して云はく、去る比法華経の三巻迄は女と云ふ字之れ無しと仰せられ候つるかと云々。上人是を聞き召し、此の尼の躰を御覧じての玉ふ言い様は、人々是を御覧ぜよ、某弟子の中には加様に懇志の人は有るべしとも覚えず。是は先日問答にいたく誥(つま)りたりつる印性房を扶けんが為に来たる尼公と見えたり。其の志有り難し。但し尼御前に誥(つげ)る事をば有るべからず凡そ斯くの如き例証之れ有り。昔天竺に摩踏婆外道と云ふ者あり。徳恵菩薩につめられて、我が家に帰り七日と云ふに死におわんぬ。彼の外道の妻夫の憤りを果たさんが為に、夫を葬送し、其の後王城に到り、菩薩に対して論議を望む。国王問うて云はく、何なる物ぞ。女之れに答(四五)
20.此の書状を以って証文となす、国中下知の様称計すべからず。或は日蓮房の一類佐渡より陸地に越へる者之れを渡すべし。鎌倉より佐渡に渡る者堅く之れを禁ずべしとて、津毎に之れを制し、船毎に之れを制す。或は市町売買等一類を堅く禁制の間、御住房に敢へて来たる人之れ無し。其の躰思ひ遣はされんこそ候へ(同上)
21.卯月八日頼綱に対して委細に之れを述べ玉へども、敢へて承引無し。其の比旱魃あり。阿弥陀堂の加賀法印に仰せられ雨の祈り之れ有り云々。上人云はく、只今国土損亡すべし。同四月十二日小雨降る。諸人歓喜す。即時に大風吹き、多くの人屋を損し樹木をそこなう。之れに依って国土以下飢饉せし(四九)
22.五月十二日鎌倉より酒輪迄なり。十三日竹下、十四日車還、十五日富士大宮、十六日南部、十七日波木井(五七)
23.凡そ一期の行儀称記し難し。毎日の所作、早旦に持仏堂に入り法華経一巻、十日十巻読誦之れ有り。幾度斯くの如く一巻経の後日天の御前に於いて方便品・宝塔品・勧持品・涌出品・神力品等、是等の要品誦し玉ふ事二度計りなり。日中には法門談義之れ有り。日夕には同音に方便品・寿量二品之れを誦し玉へり。其の外昼夜朝暮の行学称計すべからず(五九)
24.弘安五年壬午九月八日午尅身延沢を出御有り。其の日は下山兵衛四郎の所に一宿、九日大井庄司入道、十日曽弥次郎、十一日黒駒、十二日河口、十三日くれじ、十四日竹下、十五日関本、十六日平塚、十七日瀬野、十八日午尅武州荏原郡千束郷池上村に着き玉ひおわんぬ。同九月廿五日鎌倉田中より信者の輩上下参り集まる。折節立正安国論を御談義之れ在り。皆人列座の砌、上人仰せに云はく、我今三七日之内に死すべし云々。又鎌倉三室の人々参るに、種々の法門を述べ玉へり。凡そ悉達太子は十九にして王宮を出て、旦特山・頗利那山と云ふ処にして剣を抜き髪を切り御出家の後、難行苦行の功を積み、三十成道の後五十年、一代聖教を説ひて御年八十歳にして跋提河の辺にして滅を示し玉へり。生死無常の理をば仏も猶免れ給はずと見えたり。況や予は凡夫なり。然れば即ち武州田波河の辺にして入滅すべし。其の時節堅牢地神等身を振るひ悲歎あるべし。定んで其の験しあるべし。我入滅度後の墓をば身延山に立つべし。老人等行歩叶はずして自身の参詣の力之れ無くば、花の一枝なりとも誂(あつ)らえても参らすべし。即ち我之れを納受すべき等仰せ有りければ、老者の類は何も悲涙押さえ難く罷り却けると見えたり(同上)
25.九月十八日池上地頭左衛門太夫宗中が家に御入あり。十月八日本弟子六人定め玉へり。 定 御子六人事 次第不同 一蓮華阿闍梨日持 一伊予公日頂 一佐渡公日向 一白蓮阿闍梨日興 一大黒阿闍梨日朗 一弁阿闍梨日昭 右六人は本弟子となす。仍って向後の為に一々定むる件の如し 弘安五年十月八日 右筆日興(六一)
26.十月十二日酉剋北に向ひて坐し玉ふ。御前に机を立て花を供へ香を焼き、年来御安置の木像の釈迦仏を立参らせんかと申したりければ、目を挙げて御覧有って面を振り玉ふ。ある弟子御真筆の大曼荼羅を懸け奉るべきかと伺ひ申されければ、尤もと答へさせ玉ふ間、仏像を少し傍らへ押し寄せ参らせて、御真筆の妙法蓮華経の曼荼羅を懸け玉ふを御覧有り。其の後十三日の卯の尅計りに鎌倉より宗仲夫妻ども参りて、御枕本にて只今参る由申しければ、御目を開き有って答へ玉ふ。即十三日辰尅御遷化おわんぬ。御年六十一なり。爾の時大地大いに震動しき。釈尊御入滅の尅、人天大会最後の供養慇懃なりしか。末法の仏勅使御涅槃の折節、四部の弟子達供養奉る有り様誠に之れ貴し。兼日仰せの如く堅牢地神までも身を振い悲歎ある色顕れて地震等御座けるか(六二)
27.御終焉近くなって日朗以下の老僧達に対して仰せられけるは、我死するならば全身を瓶に奉納して其のまま身延山に送り置くべし云々。日朗申しられけるは、一日半日の間ならば仰せの如くあるべきか。既に三日四日の路次の伝で野に臥し山に臥す様にては届け難しと申す。御存生の折節さへ謗法の者充満の国なれば路頭も輙からず。況や御身骨を左様に致さん事は叶ひ難かるべし。簡要隠便に葬送し奉りて、御身骨を残さず身延山に入り奉るべきの由申しられければ、此の義尤もなり。然れば日朗等宜しく相計るべきの旨仰せられけり(同上)
28.御遺言に任せ十月廿一日池上より飯田まで、廿二日湯本、廿三日車返、廿四日上野、廿五日甲斐国に入り玉へり。同十月廿九日御そ木を取り御影像を建立之れ在り。作者は御弟子日法。七々日御仏事御入堂之れ在り。一百ヶ日御墓を立ておわんぬ。軈て御舎利を奉納す(六四)
―以上―
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