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2008年3月 3日 (月)

『浄土宗大辞典』に掲載された女人成仏関連の解説

前回、女人成仏・女人往生に関する諸辞典の記録を挙げておいたが、今日は『浄土宗大辞典』三巻に挙げられた関連項目を挙げておく。
日蓮教学を中心として勉強をしてきた私にとって、浄土宗における女人成仏に関する説明は、かなり新鮮であった。ひとまず今回は解説だけを挙げておき、後日に私見を述べてみたいと思う。

にょにんおうじょう【女人往生】女性も極楽浄土に往生できるということ。古来インドでは、女性蔑視の傾向があり、女性は五障があって仏に成ることがでぎないとか、浄土には女性はいないという考え方があった。これを解決するために女性は男性に転化(転女成男―てんにょじょうなん―・変成男子―へんじょうなんし―)して成仏するという考えが成立した。女人往生の場合にも、転女成男の考え方が重要な意味をもっている。『無量寿経』の第三五願には、「もしわれ仏を得たらんに、十方無量不可思議の諸仏世界にそれ女人あって、わが名字を聞いて、歓喜信楽して、菩提心を発し、女身を厭悪せんに、寿終の後また女像とならば正覚を取らじ」と浄土に往生して男子の身に変わるよう誓われている。のちに法然上人はこれを「女人往生の願」と名づげ、親鸞は「変成男子の願」と呼んだ。曇鸞は『論註』上で、女人と根欠と二乗は浄土に往生できないという説に対して、「仏もと何故ぞこの願を興したまえる。ある国土を見るに仏、如来、賢聖等の衆有りと雖も、国濁るに由るが故に一を分ちて三と説く。(略)わが国土をして皆これ大乗大味、平等一味ならしめ、根敗種子畢竟じて生せず、女人残欠の名字もまた断たんと」として、女人、根欠、二乗は往生できないというのではなく、極楽浄土にはそれらの名称すらなく一味平等であると解釈した。善導は『観念法門』に、『無量寿経』の第三五願を解釈して「乃ち弥陀の本願力に由るが故に、女人、仏の名号を称すれば、正しく命終の時、即ち女身を転じて男子と成るを得。弥陀は手を接し、菩薩は身を扶けて宝華の上に坐しめ、仏に随って往生し、仏の大会に入りて無生を証悟す。また一切の女人、もし弥陀の名願力に因らずんば、千劫万劫恒沙等の劫にも、終に女身を得ることを転ずべからず、まさに知るべし。今あるいは道俗ありて、女人、浄土に生ずることを得ずといわば、これは是れ妄説なり。信ずべからず」と説き、女人が往生できないという説を批判し、転女成男は阿弥陀仏の本願力によると強調した。曇鸞、善導の所説に、男女の差別意識が受けつがれているのに対して、法然は往生業としての念仏は男女平等に行なわれるものであり、平等に往生できると説いた。「禅勝房にしめす御詞」には「念仏申す機は、むまれつぎのまゝにて申す也。さきの世の業によりて、今生の身をばうける事なれば、この世にてはえなをしあらためぬ事也。たとえば女人の男子にならばやとおもへども、生のうちには男子とならざるがごとし。智者は智者にて申し、愚者は愚者にて申し、慈悲者は慈悲ありて申し、慳貪者は慳貪ながら申す、一切の人みなかくのごとし。さればこそ阿弥陀ほとけは十方衆生とて、ひろく願をばをこしましませ。」として、この世で男性が女性に変わることは不可能であるが、女性は女性のままで念仏を唱えよと説いた。それは、法然が下機の衆生という強い凡夫意識に立っていたことに基づいている。【参考】『念仏往生要義抄』『西宗要』二『西宗要聴書』本、『鎮西宗要宗本末口伝抄』本、『大経直談要註記』一四、『無量寿経抄』四、『翼賛』一八、『法然上人伝記』四上、六下、『法然上人伝』六、香川孝雄「仏教の女性観」(印仏研二三・二)、笠原一男『女人往生思想の系譜』。p140a-c
にょにんおうじょうがん【女人往生願】阿弥陀仏の四十八願の第三五願。義寂は令離穢形願といい、智光と良源は聞名発心転女成男願という。また不復女像願、聞名転女願、などともいう。これは法蔵が成仏したならば十方のはかり知れないほどの諸仏の国国にいる女人が名号(阿弥陀)を聞いて歓喜信受して浄土に往生したいと菩提心をおこし、女人の身を厭うものがある、かようなものが命終ののちに浄土に往生して再び女人の身をうけることのないようにしたいという誓願。安土浄厳院所蔵の『無縁集』には法然上人の講説として「設我得仏、十方世界諸女人等云々。此ハ二意アリ、一ハ生死界ノ中ニ有リト云トモ生々世々ニ女身ヲ不受事、二ニハ生死ニ廻ニハ自ラ女身ヲ受コト有ヌヘケレバ恐モ有危クモ有、サレハ生死ヲ出浄土ニ迎給事、善導和尚云、観念法門ヲ見ルベシ。(略)然ラバ此ノ釈ヲ以、浄土ニ生ジ長ク女身ヲ離正義二テ候也」とある。p140c
にょにんこんけつふしょう【女人根缺不生】阿弥陀仏の極楽浄土に女人と不具者とは生じないということ。世親の『往生論』の国土荘厳第一六大義門功徳成就の偈に「大乗善根界は等しく譏嫌の名なく、女人および根缺と二乗との種は生ぜず」と説いているように、女人と不具者との不生を示している。曇鸞は『論註』上に「わが国土をして皆これ大乗一味、平等一味ならしめん」がために、女人と根缺者とそれらの名字を断たんという誓願をもって浄土が建立されたゆえんを説いている。これは阿弥陀仏の四十八願のなか、第二一具三十二相の願と第三五転女成男の願とがあるからには、かの極楽浄土の衆生はことごとく皆平等の菩薩を具え、まったく譏嫌の名と体のないことが知られる。懐感は『群疑論』五において「下位を化せんがためには女人ありと示し、上位の者を化するには女人なしと説く。相違せざるなり」といい、また巻六において女人の有無について三釈をこころみている。すなわち第一釈には『観無量寿経』第九真身観に説く仏は受用身であるから父母あることを説かない。『鼓音声王経』に説く仏は変化身であるから父母ありと説くと指摘し、また受用身のなかにも分段生死位の菩薩を化するためには胎生の身をあらわすから父母あり、変易位の菩薩を化するためには化生身をあらわすから父母なしとし、第二釈には仏に父母等ありというのは諸功徳の法を指すのであって、浄土の阿弥陀仏に胎生の父母があるというのではないとし、第三釈には『悲華経』に説くように、諸仏の成道は浄・穢の土において所現するから一様でないのであり、阿弥陀仏は極楽浄土において成仏し給うたのであるから、胎生の身でないと説いている。このように懐感は、仏の身土によって女人の有無の相違があると説いている。これに対して善導は『観経疏』玄義分において「女人および根缺の義は、かしこに無きが故に知るべし」と明記している。これは女人や根缺の者が浄土に生まれることができないということではなく、往生できるが浄土には、そのような状態で生まれることがないということを示したものである。p141b-c
にょにんじょうぶつ【女人成仏】女性も男性と同じように仏に成ることができるということ。釈尊は男女の地位が平等であり、ともに涅槃に至ることができると説いているが、女性蔑視を思わせる所説もある。それは比丘尼教団の成立事情や比丘尼戒の制定などにもうかがえよう。また万人の成仏が仏教のたてまえであるが、成仏を男性に限り、女性には五障や三従の掟があって成仏できないという男尊女卑の傾向があった。これを解決するために、女性は男性に転じて(転女成男、変成男子)成仏するという思想が現われた。その代表が『法華経』提婆達多品の竜女成仏説である。この考え方は『阿闍世王女阿術達菩薩経』『離垢施女経』『須摩提菩薩経』『海龍王経』三、『菩薩処胎経』七などにも見られる。『大阿弥陀経』上の第二願には「わが国中をして、婦人有ることなからしめん。女人わが国中に来生せんと欲する者は、即ち男子と作らん」と転女成男が説かれ、善導は『観念法門』で「乃ち弥陀の本願力に由るが故に、女人は仏の名号を称して正しく命終る時、即ち女身を転じて男子と成ることを得」として女人往生の思想を展開している。[参考]香川孝雄「仏教の女性観」(印仏研二三・二)。p141c

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